ささえあたご山野草苑日記(旧:佐々江あたご山山野草苑準備ブログ)

南丹市日吉町上佐々江にて2018年夏オープン予定(早まりました)の山野草公園のブログです。準備中の様子やオープンのイベントなど紹介します。

こんにちは

こんにちは。南丹市日吉町の東、いちばん京都市よりにある佐々江にて、現在開園作業中の山野草公園「佐々江山野草苑(仮名)」の様子を、このブログで紹介したいと思います。

 

また、プレオープンのイベントの情報もお知らせしていく予定です。

 

よろしくお願いいたします。

 

2012.3.11 箕面国有林(明治の森)間伐7回目(新年3回目)

この日は、あの日だった。昨年、のこの日は、たしか金曜で、わたしは税務署へ確定申告へ行った帰りに、カーラジオのニュースで史上まれにみる3.11の報道を聞いた。その瞬間には、もちろん全容はわからず、東北沖でマグニチュード7(あとで9に訂正された)級の地震が発生した、という情報しかなかった。朝は晴れていたが、急に小雨がぱらつき妙な感じのする天気だった。それを境に、日本が一変した感じがした。
いまも、その余波の雰囲気はあり、この日が近づくにつれ、新聞やテレビで特集記事、番組が増えた。しかし、必ずしも、地震直後の頃より事態が変化しているわけではなく、むしろ、被災地から遠い関西においては、日々の日常からも遠くにあるものとして受け取られているように感じる。こうやって、メモリアルとして思い出される程度の出来事であるようには、思えないのであるが。

しかしながら、どうせ何も自分もこの日にあわせ、何かをやろうとしていたわけではなく、家で何もせずにいるくらいなら、と思い、いつもどおりというか、(前回は遅刻したことは、別のブログで書きました。)早めに起きれて、箕面の活動に参加した。

すると、風邪気味だった体調のせいもあるが、この森林ボランティアをやって以来、最初はおそらくそうだったに違いないが、久しぶりに木を伐る作業の大変さを痛感した。

というより、前回前々回と、性懲りもなく遅刻した結果、竹薮や間伐後の放置された倒れた木を始末する作業に回っていたので、久しぶりに間伐作業の本質である間伐木の伐採をしてみると、体力的にも技術的にも、まだまだだと痛感したということだった。

勢いで、わたしは3本も切らせていただいたが、急勾配の(もっと急なエリアもこの作業地にはあるらしいが、、)なかで、ひのき、杉を倒す、のは、よほど精密な配慮の元、作業を展開していかないと、他の木に伐った木が引っかかり、ロープを引っ掛けて引っ張る、梃子の原理で起こす、木にあらたにロープを巻き、ねじり棒をかましてひねる等々の二次作業が必要になってしまう。

この日は、この活動に毎月一緒に参加しているK持さんが、必殺(秘密)兵器(水平基準を図る携帯計測器と倒す方向の精度を高める手製の分度器のようなもの)と日頃の研鑽のあとを物語るアドバイスをわたしに与えてくれ、係り木なしで、ほとんどの木を倒しえた記念すべき日でもあった。

このように、倒したい方向へ木をちゃんと倒すことさえできれば、よけいな作業をしなくてすむ。よって、このような、建築関係に必須のツールも、そのため必要となる。これは、まさに教科書どおりのやり方なのであるが、わたしがこの2年の経験上、このような几帳面なやり方で、木を伐ったことは皆無であり、なかなか基本を習得するのは難しいうえに、それを伝えてゆくことも、難しいことを痛感した。

しかし、人間というのは、いや組織というものは、面白いものだ。なぜ突然、K持
ちさんが必殺兵器を携えて、わたしの前に現れたのか、そしてそれが、なぜこの日だったのかは、いかなる偶然と配慮のおかげであろうか。
わたしは、はじめて道具を使った人類を見た類人猿のように、おどろいた(といえばいいすぎか)。
おそらく、K持さんは、いつからかその秘儀を身に付けられたに違いないが、わたしがたまたまこの日一緒に作業したため、そのことを知ったのに過ぎない。
K持さんは、わたしと同じく、こことは違うメンバーや活動地での森林整備のボランティアをされていて、そこでそのやり方を教わったらしい。

そのやり方の詳細を書くつもりだったが、作業のあとは、手足の筋肉がブルブル状態で、久しぶりに肉体にダメージを受け、それどころではなく、また、カメラを忘れ、写真を撮れなかった。加えて、すでに1週間もたってしまったので、またその気持ちが横溢したときに、記したい。

ここでは、その秘密兵器のひとつの「分度器」と、昼食の様子のみを携帯の写真で紹介します。
「分度器型方向計測盤」↓透明なプラスチックをT字型に切り、水平面をビニールテープで印を付けてある。これを、受け口の切り口にさして、倒す方向に切れているかを確認する。目盛りは、受け口の深さを測るために、1センチごとに印がある。

昼食後の様子。ひとりづつ順番に自己紹介とコメントを話す。

2012.2.19  雪の残る将軍塚越え〜東山から山科へ抜ける

近所のタバコ屋へタバコを買いに行くのも旅だ、と言ったのは吉行淳之介だった。


それでは、日々のちょっとした移動ならぬ、すこし人里はなれた山道を通り、隣の県に近い地域を訪れるのは、かなり大きな旅に違いない。しかし、いちおう海外旅行が横行する昨今の手前、「小さな」とつけることにした。ボランティアとは違います。


京都の東山および北山西山一帯は、近年「京都一周トレイル」と名づけられ、東海自然歩道を一部組み込んで、再編成されたようなハイキングコースがある。この、タイトルの「将軍塚」から山科へ抜ける道は、そのトレイルを一部含み、何やらスタート地点に位置するようだ。



以前、ちょうど2年前、京都市が市民に呼びかけてナラ枯れ対策として、ナラ枯れにやられやすい老木を山から切り出して薪に変えるイベントをこの「将軍塚」山頂の公園(結構広く、駐車場もある)で行った。そのとき、わたしははじめてこの「将軍塚」と呼ばれる、かつて桓武天皇が平安遷都の際、京の都となる盆地をはじめて臨んだという史跡を知った。(あんた、それで京都人?)



そのイベントのちょうど前日に、少しでも多めに薪を用意するためか、また作業をシミュレートするためか、将軍塚のすぐ横にある青連院という寺院の境内内にある「見晴台」で、何人か集まって準備的な作業をやっていて、それに参加するとき、はじめてこのルート、知恩院の鐘の裏から伸びる山道を、この将軍塚を目指し登った。


山頂までもほんの20分もあれば上れる道だが、大きな木が多く、道も広く、坂はきつく、歴史を感じさせる道だった。



そこで、今回、近くに立ち寄ったついでに、この道をもう一度登って、そこから以前もたどった山科へ抜けようと思った次第。



山科には、わたしの父方の親戚がいる。そこへ久しぶりに訪ねるのもかねた。以前、ナラ枯れイベントの準備のときも、実は、そこへ同じルートで行ったからだった。


そのとき、はじめてこの道を探していたとき、ちょうど知恩院の鐘を囲っているフェンスの裏から、車がいくつか停められ、駐車場のような場所へ出たところで、掃除をされていた方に、登り口を教えていただいた。ボランティアで清掃されているようだった。



今回も、そのときの状況を頭で思い起こしながらも、辺りを見ていたら、まだ前夜の雪が屋根に固まっている小さな社が目に付いた。「吉水弁財天」の名が石に刻まれている。

鳥居をくぐり入ってみると、社殿の前に小さい手桶が積まれていて、中の水が凍っていた。

石でできている手水の鉢の中の水も凍っている。

この手水所の上の屋根は雪をかぶっていたが、下から見ると新しく普請されたようだ。


神社を参拝するときは、右回りに三回社殿を歩いて回るとよいという(これは、以前歴史会に参加していた母から聞いた)。そこで、ぐるぐる回っていると、裏に水をひいて滝にしていたような場所があった。(囲みの石柱に鯖寿司で有名な「いずう」の文字がある。おそらく、祇園界隈の名だたる老舗が寄進してできたのだろう)。


そして、法然上人の名がある石碑と井戸があった。これが、この神社のいわれの「吉水」であろう。昔は、滝も井戸も水が豊富だったろうが、今は枯れている。


弁才天は、音楽や芸事の神様であり、出町にある鴨川の三角州のそばに同じ弁才天を祭った神社がある。たぶん、祇園の芸子などは、この社にお参りしていたのではないか。お茶屋さんなども、今も寄進しているのではないか。社殿の横の社務所無人だったが、小さい神社にしては、かなり大きな建物だった。



さて、この社の北側、左手に階段があり、上がっていくと「宿泊 吉水」という大きな宿屋があった。この辺り、円山公園の裏手の道から進んできたが、宿屋が多い。おそらく、幕末のころ、長州や薩摩、土佐の勤皇志士もこの辺りに来ていたことは、「竜馬がゆく」で、司馬遼太郎が書いていた。今は、観光客頼みだろうが、1月2月はもっとも客の少ない季節である。
それでも、駐車場には一、二台だがタクシーが、泊り客が出てくるのを待っているようだった。



たしかこの宿屋の前を通り、舗装された坂を山手に上がっていくと、石段がありそこから山道があったはずだった。そこを目指して歩いていくと、軒先に「唯凡苑」という、禅風の謙虚この上ない札を掛けた建物があった。



この前を通ってすぐ、山すそにその石段があった。雪がまだ道に残っていて、溝を板で渡したところなどは、雪が固まり恐る恐る通った。まもなく道が山道になった。



途中、いくつか地蔵があり、まだ新しい花が供えられていて、人通りがわりとあることをうかがわせる。辺りは、雪景色で、日が差し、落ちる雪が一面に小さな乾いた音を立てていた。解けてしまわず、小さな粉状で落ちているのだった。


三つ目の地蔵の横に、古い石柱の道しるべがあり、「左 知恩院四町 蛍の○○三町」と縦に書かれていた。そこで、わたしよりさきに歩いて上ってこられていた方が、その「蛍」について、どこにあるんですかね、とたずねてこられた。それらしい建物とか、表示は見なかったが、もしかすると下のほうにあった建物かもしれない、などといい加減な答え方をしてしまった。(そういう名所があるらしい。。)


そこからほどなく、分かれ道に出た。脇に新しい道しるべがあり、どちらも「将軍塚公園」となっている。わたしは、右手の広い道を行くことにした。

すると、すぐに峠に出た。峠から向こうの峰が見える。さすがに雪が多いが、道路は舗装されていて、雪は残っていなかった。



山頂は、公園になっており、日曜なので自動車がたくさん駐車されており、公園では子供たちが遊んでいた。そして、以前もそうであったが、野良猫がたくさん集まってくる。(たぶん猫を捨てにここまで来るのだろう。こうしたことは決してすべきではないし、かなり厳重に取り締まられている気配もある。監視カメラなどだ。)



山頂から京都市がほぼ全域見渡せる。絵を描き、何が見えるかを親切に書いてくれている看板もある。

正面に見えるのは、愛宕山だ。ところどころ雪が白い。



こちらは、左隅に四角い白っぽい形で幌をかぶったような建物があるが、たぶん東本願寺である。馬鹿でかく威容を誇っている。

ここには、家族連れや学生っぽい山ガール(男性もいたが)のグループがいた。わたしはここで弁当を食べた。晴れてきて景色がよく気持ちがいい。


山科へ抜けるのは、しかしうろ覚えで自信がなかった。山ガール集団に地図を見せてもらえばよかった、と後悔しつつうろ覚えながら、その車のいっぱいある駐車場を横切り、公園の端っこにあるヘリポート(なんかがある)の横を通って、公園の柵を越えると、高大寺境内と書かれた標識がある。確かこの道だったと思い、そこから続く山道を下っていった。


誰も通っていない。しかしこの道もすぐに大きな林道に出た。林道の脇には、石で囲まれた溜池があった。


池の脇にあった石柱に「山科街道」の文字がある。立派な太い道である。ちなみにここから南へ山へ上がるルートもあった。おそらく清水山へ上がる道である。しかしそのルートは取らず、この林道を東へ下ることにする。たしか、アスファルトの車道へ出るはずだった。


ほんの5分ほどで、車道が見えた。道の脇は谷になっていて、水量は少ないがここにもさきほど路傍の表示にあったように池がある。そこは「東山山荘」と銘打たれた立派な旅館があるが、人気がない。
林道と車道の境には、高い鉄筋の厳重なゲートがあり、ガードレールとの隙間から這い出るような形で、道路に出た。おそらく、高大寺か清水の境内なので、立ち入り禁止にしているのだろう。


さて、ここからがすこしややこしい。道はややこしくないが、実はこの東山から山科へ抜ける道は、あの阿含宗の境内と接しており、広大なその宗教の聖地を目の当たりにしながら、この現代なぜか隠れた人気を持つ、秘教的な宗教の威力を思い知ることになるのである。(最初は、地図を持っていたため、迷わなかったが、たえずこの道でいいのか不安だった。それほど威圧感のある空間であった。)


これは阿含宗の社殿?。先ほどの弁財天の社など消し飛びそうな勢いだ。向こうに白い雪をのせた北山連峰が見える。

実は、ほんの一週間前の2月12日は、この宗教の年一回の一大行事、「星まつり」があったはずだ。ほかならぬこの境内近くの山科側の斜面に広々と設けられた、祝祭広場的な場所に火をたき、恐ろしい数の人が集まる。テレビのCMでも流すくらいだ。わたしが通っている道路は、おそらく、京都駅からひっきりなしに信者を運び続ける貸切バスやタクシーでいっぱいだったはずである。(いまも信者さんを運んでいるのか、バスが一台停められていた。)

その名残の看板がまだ撤去されずにいた。




そして、この山科へ降りる道は、「星祭」参加者の雑踏となっていたであろう。
途中、京大の花山天文台への道を間違って上がってしまった。ゲートには、関係者以外立ち入り禁止の看板があり、この道はここで行き止まりとなる。


しかし、、。こう馬鹿でかい宗教施設に囲まれてしまうと、京大の天文台が先にできていたとはいえ、包囲戦にあっているようで心細いに違いない。


花山天文台は、まだまだ現役で使われているらしく、この間、福島から避難している子供たちを対象に、天文台での星観察に招待するという記事が新聞に出ていた。がんばってほしい。



もう一度車道に戻って、この天文台へ向かう分岐からさらに数十メートルほど行ったところにある分かれ道を取った。その道が、おそらく、星祭の現場である広場に行く道らしいが、実は地図にも載っている山科へ降りるちゃんとした公道なのである。



しかしながら、道脇はフェンスで区切られ、山林側に「阿含宗境内」と筆書きした木の看板が所々立てられていた。


これは、例の広場だ。ステージのようなものが設けられ、道からは今は入れなくなっている。



わたしは、しかし、この道で、雪がところどころ残った林道脇の林を見ながら、中学生のころ毎週日曜にボーイスカウト活動で入っていた比叡山大文字山の様子を思い出した。ちょうど、今日も日曜で、幸い天気もよい。山の空気や雪の冷えた感じが、そのときの記憶を呼び覚ますのだろう。それは久しぶりの感覚であった。


前に、ここへ来たとき、これから向かう山科の親戚の家で、伯父(父の兄)が、わたしの父が子供のころ、知恩院の裏から将軍塚に上るこの道を、学校の行事でよく登らされた、という話を聞いた。父は、小児喘息の持ち主で、かなり山登りはしんどかったらしいが、その話も、ここへ来る道中、思い起こしていた。当時は、戦時中もしくは、戦後すぐだったはずである。父は、中京の生まれで、学童疎開経験者である。


山へ登っていたのは、おそらく戦争中ではないか、という気がした。軍事教練的な指導で、毎日やっていたのではないか。(詳しくは聞いていないが、、)



だんだん山を降りてきているのがわかる。斜面が急になるが、このような階段もおそらく信者のために設けられているのだろう。われわれは、それを利用させてもらっているが、社殿といい、広場といい、このような道の整備といい、宗教の力の大きさを感じさせた。いま流行の宗教には、新興といういかがわしさがどうしてもついて回るが、かつての比叡山高野山、さっき通ってきた清水寺や高大寺といったところも、同じような力で、奥深い山を境内化し、今のような歴史的な「世界遺産」になったのである。
ただ、何かが違うのだ、。。それが何かは、よくわからない。(信者の方いたら、ごめんなさい)


ついに、JRの線路が見え、おりしも電車が通って過ぎていった。住宅街に道が出て、ちょうどJRの東海道線が、トンネルに入る場所に出るのであった。


その線路を道路が上にまたいで通っている。すぐにこの道は蹴上に続く三条通に出る。わたしは、この道を旧渋谷(しぶたに)街道のほうへ向かい、親戚の家のある北花山に向かった。いつも狭い道を車がよく通るのだが、日曜のせいか、少なかった。


前に来たときに、道脇にあった小さい稲荷社を見つけた。そのちょうど向かいに食堂か美容院があって、前にはそのガラスのドアの中から犬が一匹、道路向かいにいたわたしを見ていた。その犬の姿を探したが、今日は見えなかった。
寒いので家の奥に入っているのだろう。